プロフィール

子どもたちの未来のために行動する!

子どもが体罰やいじめを苦に自殺したり、貧困を理由に希望する進路をあきらめるようなことがないように力を尽くします。

病気や介護が必要となった時に、お金がなくて十分な医療や介護が受けられないということもあってはなりません。

医療や福祉の後退を許さない立場で頑張ります。

略歴

20189
1962年 生まれ。
1981年大阪府立春日丘高校卒。京都大学医療短期大学部看護学科入学。
1984年 京都府立保健婦専門学校に入学。
1985年 京都民医連北病院勤務。
1987年 待鳳診療所勤務。
1989年 北病院地域医療部で、訪問看護活動に取り組む。
1993年 葵会訪問看護ステーションの初代所長として勤務。
1994年 京都民医連綾部協立病院で訪問看護の部署で勤務。
1997年 北病院外来に勤務。京都市在宅介護支援センター施設長となる。
1999年 京都市会議員に初当選。(現5期)

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6期目当選させていただきました。応援をいただいた皆さん、ありがとうございました

北区全員当選!しかも、自民党票を上回り、北区では第一党です。私と井坂さんんの票は足すと11286票に対して、自民党の二人の票は10583票でした。私は過去最高の6549票で北区でトップ当選させていただきました。その分、期待もずっしりです!頑張ります! 安倍暴走誠治にストップをかける!消費税増税にストップ!戦争への道づくりは許さない!原発再稼働反対!敬老乗車証を守る!子どもの医療費助成制度を通院も中学卒業まで拡充する!これらに公約実現に向けて頑張ります!こくた衆議院議員も駆けつけて、もう一度\(^o^)/

4期目当選しました。ありがとうございました。今回の選挙は、北区市会の場合、京都党、みんなの党の新党が加わり、3人いた自民党が2人に、民主党は4年前、共倒れしたので、1人に絞り2人落ちの選挙でした。いつもと違う様相に加え、東日本大震災直後の選挙ということで、今までに経験したことのない選挙でした。こんな時に選挙していいのか、被災地にボランティアに行かなくていいのか、迷いながらの選挙でした。しかし、被災地にご両親がおられる北区の方から相談があり、現地の共産党と連携して対応した経験をきっかけに、被災地の方にこそ、今政治の手が差し伸べられなくてはならない時。被災地の住民や議員の分も頑張らなくてはならないと思い、闘うことができました。新井進さんとバトンタッチした浜田よしゆき府会議員と井坂市会議員と力を合わせて頑張ります。

3期目当選させていただきました。5913票の重みをしっかり受け止め頑張ります。今回は日本共産党からの立候補者数を6人区に3人から2人に絞ったことや自民党(系)が3人立てて票が割れた事もあり、トップで当選しました。同僚の井坂博文市議は2位当選でした。新井進府会議員は今回初めて無投票当選となりました。3人で力を合わせて頑張ります。

定数7から6に減らされ、9人が立候補するという激戦でしたが、2期目の当選をさせていただきました。投票率が下がり、得票数は大幅に減らしましたが、得票率は4年前の32.7から32.1と若干の減でした。5,472票のご期待に応え頑張る決意です。


7人区で市議3人当選!
京都市会議員に初当選。(5559票)
・1年目 建設消防委員
・2~4年目 文教委員

そこに日本共産党北地区委員会より、市会議員の候補者要請が・・・・。
北区7人区で、若宮修市議、井坂博文市議に加え、初めて3人目の挑戦をするとのこと。迷いましたが、介護保険を良くすることができるなら、やってみたいと思い決意。

京都市に戻る。北病院外来に勤務。
京都市在宅介護支援センターの施設長となり、忙しく働く。介護保険前で、地域のサービス業者や行政とのネットワーク作りに懸命でした。しかし、介護保険の話が本格化する中で、これは、介護の現場は大変なことになるな~と不安を募らせていた。

3年間綾部で暮らす。京都民医連の綾部協立病院で訪問看護の部署で勤務。
慣れないミッション車で、綾部中を訪問看護や往診で駆け回りました。(綾部の人より綾部を知っているかも・・・。)子どもに、お母さんの綾部弁は変だと言われながらも、綾部弁が大好きで好んでしゃべっていました。
時間の流れが違うというか、ゆったりとした心地よさと、みんなに親切にしていただいて本当に夢のような3年間でした。(3年の間に夏山病院という産科病院で、超安産で長男を出産。超音波で、胎児の心臓4室を説明してくださるすごい先生でした)

葵会訪問看護ステーションの初代所長として、勤務。
開設準備から関わり貴重な経験をさせてもらいました。ちょうど1年経ったところで、夫の綾部への転勤で、退職し、家族で綾部に移住。

北病院地域医療部で、訪問看護活動に取り組む。
看護料がつきだしたばかりで、不採算部門でしたが、その必要性から、位置付けられた部署でたくさんの事を学び、鍛えられました。在宅患者家族の会『ひまわり会』の創設を呼びかけ、結成できたことは、心に残る思い出です。1990年に次女出産。

待鳳診療所に勤務。
(異動)民医連ならでわの地域に密着した医療活動を経験。訪問看護への道の始まりでした。

京都民医連北病院に就職。
はじめの2年間は病棟勤務。病棟のテンポについていけず、くじけることも多かったのですが、本当に貴重な経験となりました。
就職して2年目に結婚。1年後に長女を出産。仕事も、子育ても一緒にやってきたって感じです。

京都府立保健婦専門学校に入学。
看護の深さと素晴らしさを学びました。
初めての下宿生活。ここでも、学生自治会長もやり、とても充実した1年でした。
一番印象に残っているのは、養護教諭の教育実習。今は廃校になった下京区の「開智小学校」で、6年生に虫歯の予防学習の授業をし、校長先生に誉めてもらいました。自主サークルで、性教育のあり方の研究をし、とっても楽しかった。みんな各地で活躍していて、励みになります。
就職には、京大病院、保健所、養護教諭、などいろいろ悩みましたが、看護のネットワークを作っていくには、民医連の病院から働きかけることをしたいということ、良い医療や看護をしていくためには、医療制度の改善を求め、運動もしなくてはいけない。素晴らしい綱領や方針をもち活動する民医連に魅力を感じ、決意。

京都大学医療短期大学部看護学科に入学。
大阪から3年間阪急電車で通いました。医療研究会に入部し、多くの仲間と知り合いました。学生自治会長やサークルのキャップなど等で、忙しく過ごしました。日本民主青年同盟の活動でも、学び、語り会い本当に楽しい学生生活でした。
当時、京大の民青の委員長が、今の井上哲参議院議員で、私も議員になり、こんなにお付き合いが続くとは夢にも思いませんでした。
19歳の夏、日本共産党に入党。

大阪府立春日丘高校入学。
1,2年はクラブ(吹奏楽部でクラリネット)に没頭。3年はサボっていた分を取り返すべく猛烈に勉強しました。夏休みは、中ノ島図書館に通い猛勉強。
* 後からわかりましたが、日本共産党市会議員には私を含め、井上けんじさん、妹尾直樹さんも春日丘高校出身で、先輩です。

摂津市立第一中学校に入学。
クラブは吹奏楽部、パートはパーカッション。朝練、昼練、夕練と厳しいクラブでした。2年生の時には生徒会役員も務めました。いたってまじめな性格で、交通安全委員で厳しく門限を取り締まり、嫌われていたかも・・・。

摂津市立味舌(ました)小学校に入学。
先生の影響もあり、どんどん活発な子どもに成長していく。学級委員はいつも進んで立候補。5・6年のクラブは放送クラブ。
実はこの頃からマイクを握っていた。5年生の時、生徒会の書記に立候補。母が縫って、父が墨で名前を書いてくれた『たすき』をかけて、選挙演説をして、みごと当選しました。遊びも半端ではなかった。当時、はやっていた「Sけん」は、早朝、中間休み、昼休み、放課後と没頭して遊んだ。土曜日にはいつもお楽しみ会を企画し、『口ぱくコンテスト』、『8時だよ全員集合』まがいのものや創作劇『未来へ行く少女』まで創って上演するなど、思い返しても、とにかくパワフルな小学生時代を過ごしました。

守口市立幼稚園入園。
この頃はよく男の子にいじめられて泣かされていた。引越しのため、中退。

大阪府吹田市で、大工の父の長女として生まれる。

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趣味 和太鼓、エイサー