プロフィール



公約でもある市民の声を議会に届ける仕事は、医療・介護や教育現場の実態や声を議会に届け、改善を求めていくことで、とてもやりがいを感じています。さらに頑張りたいと思っています。
11年前、立候補を決意したのは介護保険制度が始まる前でした。医療介護の現場で働いていて、いい看護がしたいと思っていても、制度がどんどん悪くなり、政治が変わらないと良い医療や介護はできないと実感したからです。

総選挙では政権も変わりましたが、京都市議会では、自民・公明・民主はオール与党で、市長の提案議案には何でも賛成です。もっと共産党が議席を増やし、議会のチェック機能を強めるとともに、市民の皆さんと力を合わせ、暮らしを圧迫する議案は跳ね返していきたいと思います。今後はもっと、市議会の報告に力を入れ、市民の皆さんにとって、身近な市政となるよう頑張りたいと決意しています。
雲ヶ畑在住 安井みつ子さん

景観を害するトタンの壁 
自転車が離合しにくい狭い歩道

原谷在住東さよみさん
2007年4月8日 3期目当選!
3期目当選させていただきました。5913票の重みをしっかり受け止め頑張ります。今回は日本共産党からの立候補者数を6人区に3人から2人に絞ったことや自民党(系)が3人立てて票が割れた事もあり、トップで当選しました。同僚の井坂博文市議は2位当選でした。新井進府会議員は今回初めて無投票当選となりました。3人で力を合わせて頑張ります。
2003年4月 2期目の当選
定数7から6に減らされ、9人が立候補するという激戦でしたが、2期目の当選をさせていただきました。投票率が下がり、得票数は大幅に減らしましたが、得票率は4年前の32.7から32.1と若干の減でした。5,472票のご期待に応え頑張る決意です。
1999年4月『本会議質問に立つ私』
京都市会議員に初当選。(5559票)
・1年目 建設消防委員
・2〜4年目 文教委員
1998年
そこに日本共産党北地区委員会より、市会議員の候補者要請が・・・・。
北区7人区で、若宮修市議、井坂博文市議に加え、初めて3人目の挑戦をするとのこと。迷いましたが、介護保険を良くすることができるなら、やってみたいと思い決意。
1997年『たくさんのことを学んだ訪問介護の1コマ』
京都市に戻る。北病院外来に勤務。
京都市在宅介護支援センターの施設長となり、忙しく働く。介護保険前で、地域のサービス業者や行政とのネットワーク作りに懸命でした。しかし、介護保険の話が本格化する中で、これは、介護の現場は大変なことになるな〜と不安を募らせていた。
1994年4月
3年間綾部で暮らす。京都民医連の綾部協立病院で訪問看護の部署で勤務。
慣れないミッション車で、綾部中を訪問看護や往診で駆け回りました。(綾部の人より綾部を知っているかも・・・。)子どもに、お母さんの綾部弁は変だと言われながらも、綾部弁が大好きで好んでしゃべっていました。
時間の流れが違うというか、ゆったりとした心地よさと、みんなに親切にしていただいて本当に夢のような3年間でした。(3年の間に夏山病院という産科病院で、超安産で長男を出産。超音波で、胎児の心臓4室を説明してくださるすごい先生でした)
1993年
葵会訪問看護ステーションの初代所長として、勤務。
開設準備から関わり貴重な経験をさせてもらいました。ちょうど1年経ったところで、夫の綾部への転勤で、退職し、家族で綾部に移住。
1989年
北病院地域医療部で、訪問看護活動に取り組む。
看護料がつきだしたばかりで、不採算部門でしたが、その必要性から、位置付けられた部署でたくさんの事を学び、鍛えられました。在宅患者家族の会『ひまわり会』の創設を呼びかけ、結成できたことは、心に残る思い出です。1990年に次女出産。
1987年
待鳳診療所に勤務。
(異動)民医連ならでわの地域に密着した医療活動を経験。訪問看護への道の始まりでした。
1985年
京都民医連北病院に就職。
はじめの2年間は病棟勤務。病棟のテンポについていけず、くじけることも多かったのですが、本当に貴重な経験となりました。
就職して2年目に結婚。1年後に長女を出産。仕事も、子育ても一緒にやってきたって感じです。
1984年『1日研修の1コマ 本当にたくさんのことを楽しく学んだ1年でした。』
京都府立保健婦専門学校に入学。
看護の深さと素晴らしさを学びました。
初めての下宿生活。ここでも、学生自治会長もやり、とても充実した1年でした。
一番印象に残っているのは、養護教諭の教育実習。今は廃校になった下京区の「開智小学校」で、6年生に虫歯の予防学習の授業をし、校長先生に誉めてもらいました。自主サークルで、性教育のあり方の研究をし、とっても楽しかった。みんな各地で活躍していて、励みになります。
就職には、京大病院、保健所、養護教諭、などいろいろ悩みましたが、看護のネットワークを作っていくには、民医連の病院から働きかけることをしたいということ、良い医療や看護をしていくためには、医療制度の改善を求め、運動もしなくてはいけない。素晴らしい綱領や方針をもち活動する民医連に魅力を感じ、決意。
1981年『学校の前で』
京都大学医療短期大学部看護学科に入学。
大阪から3年間阪急電車で通いました。医療研究会に入部し、多くの仲間と知り合いました。学生自治会長やサークルのキャップなど等で、忙しく過ごしました。日本民主青年同盟の活動でも、学び、語り会い本当に楽しい学生生活でした。
当時、京大の民青の委員長が、今の井上哲参議院議員で、私も議員になり、こんなにお付き合いが続くとは夢にも思いませんでした。
19歳の夏、日本共産党に入党。
1978年『ブラスバンド部でクラリネットを担当』
大阪府立春日丘高校入学。
1,2年はクラブ(吹奏楽部でクラリネット)に没頭。3年はサボっていた分を取り返すべく猛烈に勉強しました。夏休みは、中ノ島図書館に通い猛勉強。
* 後からわかりましたが、日本共産党市会議員には私を含め、井上けんじさん、妹尾直樹さんも春日丘高校出身で、先輩です。
1975年『ブラスバンド部でパーカッション担当』
摂津市立第一中学校に入学。
クラブは吹奏楽部、パートはパーカッション。朝練、昼練、夕練と厳しいクラブでした。2年生の時には生徒会役員も務めました。いたってまじめな性格で、交通安全委員で厳しく門限を取り締まり、嫌われていたかも・・・。
1969年
摂津市立味舌(ました)小学校に入学。
先生の影響もあり、どんどん活発な子どもに成長していく。学級委員はいつも進んで立候補。5・6年のクラブは放送クラブ。
実はこの頃からマイクを握っていた。5年生の時、生徒会の書記に立候補。母が縫って、父が墨で名前を書いてくれた『たすき』をかけて、選挙演説をして、みごと当選しました。遊びも半端ではなかった。当時、はやっていた「Sけん」は、早朝、中間休み、昼休み、放課後と没頭して遊んだ。土曜日にはいつもお楽しみ会を企画し、『口ぱくコンテスト』、『8時だよ全員集合』まがいのものや創作劇『未来へ行く少女』まで創って上演するなど、思い返しても、とにかくパワフルな小学生時代を過ごしました。
1968年
守口市立幼稚園入園。
この頃はよく男の子にいじめられて泣かされていた。
引越しのため、中退。
1962年『大工の父と』
大阪府吹田市で、大工の父の長女として生まれる。
